柳野隆生 > ノスクマードベンチャー塾 > 塾活動記録 2011年 第6回(7月)のテーマ 台湾を愛した日本人 ――― 土木技師 八田與一の生涯 ―――
台湾を愛した日本人 ――― 土木技師 八田與一の生涯 ―――
東日本大震災における台湾からの義援金は増えつづけ、ついに200億円を超えたという。未曾有の大災害でさらなる苦境に陥った日本が、今後最も大切にすべき隣人が何処か明確になったといえる。台湾官民各界の被災者への深い哀悼と熱い支援には、強く感銘を受けた。「苦しいときの友は真の友」というとおり、日台関係には言葉の壁を越えた、深いところで通じ合う特別な絆を感じる。日本と台湾の交流協会が2010年に発表した調査では、台湾人の52%が日本を「最も好きな国」に選んでいる。なぜ台湾の人々が、ここまで日本へ深い愛情を持ってくれるのか。それは、かつての日本人が台湾に残した誇るべき歴史があったからである。
7月のノスクマードベンチャー塾では、古川勝三氏著作の「台湾を愛した日本人―土木技師 八田與一の生涯―」を輪読した。八田與一(はったよいち)―― この名前を、初めて耳にするという人が大半ではないだろうか。 日本統治下の台湾で、水利事業に半生をささげ、台湾の発展に大きく貢献した人物である。土木技師として、台湾総督府土木局に勤め始めてから、56歳でなくなるまでのほぼ全生涯を台湾で過ごし、台湾の開発に尽くした。その功績がたたえられ、台湾では教科書にも載り、銅像まで建てられるほど台湾の人々に慕われ、尊敬されている数少ない日本人である。半世紀以上たった今でも、毎年の命日には農民たちによって、彼の恩を偲び感謝する墓前祭が行なわれている。しかしなぜか彼の名前は、日本国内はもとより台湾在住の日本人にもほとんど知られていない。 昭和55年に台湾の高雄日本人学校に勤めていた著者の古川勝三氏は、八田與一の話を知って感動し、綿密な調査を得て、昭和58年に第一版を出版した。帰国後、さらに詳細な記録を精査し、平成元年に青葉図書から再出版、土木学会著作賞を受賞した。その後絶版となっていたが、新資料を加え平成21年に本著が出版された。また平成22年に、八田與一の人生を映像化した「パッテンライ!!」というアニメーション映画のDVDが虫プロダクションから発売されている。 第二次世界大戦終了までの日本による植民地支配が強く非難される一方で、現地の人々の幸せを最優先に考え、献身的に働いた日本人がいたことは、歴史から消え去りつつある。この八田與一という歴史の火を消さないために尽力した古川氏の並々ならぬ努力と、映画並びにDVD製作に携わった人々に敬意を表する。
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八田與一は、1886年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校を経て東京大学土木工学課に学び、1910年に卒業後、まもなく台湾に赴任した。1895年に日本領となった当時の台湾は、アヘンの風習やマラリア、コレラが蔓延し、抗日ゲリラによる攻撃が続くなど、治安の乱れによりきわめて近代化の遅れた状況であった。1898年頃から日本の開発により発展したとはいえ、與一が赴任した頃は、まだまだ河川水利事業や土地改革において遅れをとっていた時代である。
彼の取り組んだ事業の代表的なものとして、台湾の嘉南平原灌漑事業がある。不毛の大地といわれた15万ヘクタールにおよぶ嘉南平野を、台湾最大の穀倉地帯へと変貌させた。当時における東洋一の灌漑土木工事として、実に10年の歳月と5,400万円(現在の約5千億円)もの費用をかけた、一大事業であった。32歳という若さで設計に取り掛かり、34歳で現場監督として指揮をとった八田氏の才能と実行力は、並大抵のものではなかった。 與一の発想の面白さは、そのスケールの大きさと、既存のものを根本からひっくり返す点にある。彼が構想した計画の雄大さに、誰もが驚いた。嘉南平野の15万ヘクタールとは、東京23区の2.5倍近い広さであり香川県に匹敵する面積である。日本はおろか、世界でもこれほどの規模の灌漑は珍しく、そのような工事に携わった者もいなければ、見た者もいなかった。誰も想像したこともない、気の遠くなるような計画であった。しかし、與一は信念を持っていた。この開発が実現すれば、必ず台湾農業は大きく変わる。今やらなければ、やれる時はないという信念である。 開発前の嘉南平原は、洪水と旱魃と塩害の三重苦が支配する、まさに不毛の大地であった。與一は、嘉南に住む60万の農民が、作物の水だけでなく飲料水にさえも苦しんでいる実態に驚き、何としても嘉南平原に水を送らねばならぬと心に誓ったのである。 |
この巨大工事の中で、與一は、当時としては常識はずれな独創的方法を採用した。そのひとつに、水源地である烏山頭のダム建設で採用した、セミハイドロリックフィル工法がある。この工法は、コンクリートをダムの中心部にわずかしか使用せず、殆ど土と石だけを利用し、射水によって築造する珍しいものである。当時、アメリカで数例用いられていたが規模が小さく、東洋では皆無であった。與一が設計した烏山頭ダムは、全長1,273m、高さ56m、給水量1億5千万トンの巨大ダムである。これほど大規模のダムは、ダム先進国のアメリカでさえ数例を見るだけで、さらにセミハイドロリックフィル工法を用いて築造するなど、例のないことであった。しかし與一は、徹底的な机上の研究とアメリカ視察を行い、自らの判断でこの工法を採用、300頁にも及ぶ設計図を書き、完成にこぎつけた。その烏山頭ダムは今でも満々と水をたたえ、技術者としての與一の正確性を証明している。
與一が取り入れた画期的なものとして、大型土木機械の導入がある。費用がかかることと、機械の使い方を知っているものが誰もおらず、多くの人が反対したが、與一の考えは、次のとおりであった。「これだけの大工事に人力だけでは20年たっても完成しない。工期が短くなれば、広大な土地がそれだけ早く金を生み、結果的に安く済む。機械は竣工した後も使えるし、何より大型機械を使いこなせる技師が育つ。日本に大型機械を作る会社が一社もないのは、機械の価値を理解し、必要とするものが現れないからだ。これは、一種の改革である。」目先の利益にとらわれず、以後の工事のことまで考えた、筋の通った判断であった。
嘉南平原すべての土地に給水するには、烏山頭ダムと濁水渓からの水源では物理的に不可能であった。そこで與一は、給水面積を縮小することはせず、「三年輪作給水法」を導入した。土地を3区域に区分けし、水稲、甘蔗、雑穀の三年輪作栽培にし、水稲は給水、甘蔗は種植期のみ給水、雑穀は給水なしという形で一年ごとに栽培する方法である。おかげで、嘉南に住むすべての農民が水の恩恵を受け、生活が劇的に向上した。
そのうらで、事業を成功させるためには、台湾総督府から資金を調達するための才腕が必要であった。與一は、寝食を惜しんで広範囲にわたる実地調査を行い、報告書を作成し、当時の土木局長に説明した。話を聞いた山形局長は、與一の着想の素晴らしさと人間性を信頼し総督府への説得にあたった。役人の世界は、肩書きがものを言う縦社会である。いくら素晴らしい企画をつくっても、上司がそれを理解し受け入れない限り、その企画が実を結ぶことはない。その意味で、與一は優れた上司に恵まれていたし、彼らとの出会いがあったからこそ、この雄大な計画が実行されたのである。
為政者であれ、企業経営者であれ、上に立つものは時に敏速に大きな決断をせねばならないときがある。今年の2月にノスクマード塾で取りあげた「エルトゥールル号事件」でも同じような局面があった。生存者たちをトルコへ帰還させるため、軍艦2隻を至急派遣せねばならなかったときである。それぞれの思惑でドイツとロシアからも送還の申し出があり、日本は早急にこの件を実行する必要があった。当時の明治政府の決断は速やかであり、驚くほど迅速に帰還は実現した。決めなければならないことを先送りし、他国からの信頼を失った今の政府とは一線を画した対応である。 |
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與一は、卓越した見識をもつ優れた技師であるだけでなく、人間としても人を引きつける温か味があった。彼は、肩書や人種によって人を差別せず、あらゆる人を思いやり、大切にする精神を持っていた。そんな彼の気質を物語るエピソードがある。
ひとつは、烏山頭職員庁舎の建設である。與一は、「完璧な工事を行なうには、安心して働ける環境が必要だ。技術者を大事にせずよい工事など出来るはずがない。」と、職員が家族全員と住める広さの庁舎を確保し、病院、学校、大浴場や、テニスコートや弓道場などの娯楽設備まで用意した。さらに、映画上映やお祭りなど、職員だけでなくその家族にも配慮した町づくりを行なった。
また、関東大震災の影響で、従業員の約半数を退職させる必要に迫られたことがあった。その時、「優秀な者は再就職がすぐにできるが、そうでない者は失業し生活ができなくなる」と、優秀な人から解雇し、退職者の職場探しのために奔走した。その後、時期をみて大部分の希望者を再雇用した。 工事途中、ガス爆発で数十人がなくなる事故があった。犠牲者を出すことを一番恐れていた與一は、ひどく落ち込んだ。それを聞いた台湾の農民は、「決して工事から手を引かないで欲しい。今中止したら、嘉南の農民は水のない生活を続けることになる。死んだ者のためにも、是非工事を完成させて欲しい。」と彼を励ましたという。台湾の人々や仲間の支えもあり、困難を乗り越えた與一は、雄大な開発計画を完成させることができた。通水が開始され、豊かな水が網の目のような水路に流れ込み、大地を潤した。三重苦に苦しんできた嘉南の人々は、「神の水だ」と歓喜の声をあげた。この時から八田與一の名前は農民たちの心に刻み込まれ、「嘉南大の父」としていつまでも消えることはなかった。 |
與一が、台湾の人々に今でも感謝され愛される理由は、彼の成し遂げた功業はもちろんのこと、彼の人間性、生き方、彼の残した「精神」の素晴らしさではないか。 植民地といえば、暗い影の部分ばかりが注目されがちだが、このような心温まる、光の部分もあるのだということを、伝えることも大切なのではないだろうか。次代を担う若者に、日本人としての誇りを持ち、国際的な視野を持った人間になってもらうために、八田與一の偉業を思い出すだけでも意義はある。今の日本人に求められているもの ―― それはまさしく、八田與一の生き方や思想の中にあるように思える。彼の功績が、台湾だけでなく日本でも、多くの人々の心に残り、多くの若者に夢と勇気を与えることを切に願うのである。
・使用参考文献
「台湾を愛した日本人(改訂版)―土木技師 八田與一の生涯―」古川勝三 著(創風社出版)
・使用参考DVD
「パッテンライ!! 〜南の島の水ものがたり〜」監督/石黒昇(虫プロダクション)