「樹脂配合用酸素吸収剤」事件
知財高裁平成19年10月31日判決
(平成18年(行ケ)第10452号審決取消請求事件)
1.事実の概要
2.特許庁の審決での判断(容易想到性の判断に関する部分)
3.当裁判所の判断(容易想到性の判断の誤りについて)
4.考察
原告は「樹脂配合用酸素吸収剤及びその組成物」の発明について平成1年3月28日に出願し(特願平1−73869号)、平成10年7月10日,特許庁から特許第2137309号として設定登録を受けたが、本件発明に対して被告から無効審判が請求され(無効2004−35128号事件),特許庁は,平成18年8月31日,「特許第2137309号の請求項1に係る発明についての特許を無効とする。」との審決(無効審決)をした。そこで、原告(特許権者)が被告(無効審判請求人)に対し、当該審決の取消しを求める訴訟を提起したのが本件裁判である。
本件発明は、「還元性鉄と酸化促進剤とを含有し 且つ鉄に対する銅の含有量が150ppm以下及び硫黄の含有量が500ppm以下であることを特徴とする樹脂配合用酸素吸収剤。(請求項1)」である。
審決では、甲1発明に基づき本件発明を容易に想到することができたと判断したが,その前提として「本件出願前において,銅,硫黄含有量が本件発明の範囲まで低減された鉄粉が既に脱酸素剤用途の脱酸素剤用鉄粉の銘柄として一般に市販されていた」との認定があった。本裁判では、この前提事実の認定に誤りがあったとして取消事由(容易想到性の判断の誤り)を認めたものである。
以下、この点について、審決での判断および当裁判所の判断を紹介する。
(本願発明の認定)
『 引用発明の樹脂配合用脱酸素剤は還元性の鉄と塩化ナトリウムとからその組成が構成される組成物をその実施の態様として含むものである。そして、この2成分からなる組成物においては、塩化ナトリウムは通常は銅も硫黄も含有しないものであるから、この組成物においては、還元性鉄それ自身が含有する銅の含有量と硫黄の含有量が、鉄に対する銅の含有量と硫黄の含有量を規定している。そして、そもそも、本件出願時において、甲第1号証に記載されている樹脂配合用鉄粉系脱酸素剤の原料である脱酸素剤用鉄粉として、本件出願前に一般に市販されている脱酸素剤用鉄粉を使用することは当業者が容易に想到し得るとするのが相当というべきである。そうすると、本件出願時において、(i)本件発明が規定する範囲内の銅、硫黄分を含有する脱酸素剤用鉄粉が本件出願前に一般に市販されていたということができ、かつ、(ii)樹脂配合用脱酸素剤においては脱酸素剤用鉄粉と塩化ナトリウムが原料として使用されることが甲第1号証に記載されていれば、本件発明が規定する範囲内の銅、硫黄分を含有する樹脂配合用脱酸素剤(註.酸素吸収剤に同じ)は当業者にとって容易に想到されるとするのが相当である。そして、このものは、本件発明と同一であるから、この場合、本件発明は、当業者にとって容易に想到されるものであることになる。 』
『 甲第13号証は,請求人が川崎製鉄株式会社から購入した上記KIP303A−60に関する鉄粉検査証明書であり,ここには,その検査証明日が本件出願前の1988年11月14日であること,及び検査されたKIP303A−60鉄粉の硫黄含有量が0.016〜0.020%(160〜200ppm)であり,銅含有量が0.01%(100ppm)であることが記載されている。・・・本件出願前において,本件発明の銅,硫黄含有量範囲を満たす鉄粉が既に一般に販売されていたことは,甲第13号証の記載内容からして明白であり,本件発明の銅,硫黄含有量範囲を満たす鉄粉は,本件出願前において,一般に販売されていたということができる。』
『 甲第12号証は,川崎製鉄株式会社が作成した,川崎製鉄(株)製KIP303A−60鉄粉がアトマイズ鉄粉であることを記載したアトマイズ鉄粉に関する頒布資料であって製品カタログと推定され,そして,本件出願前の1988年1月末までに作成頒布されたと推定されるものである。・・・甲第14号証・・・について検討するに,このものは本件出願後に作成頒布されたものであるが,そこには川崎製鉄株式会社が本件特許出願前である1965年から還元鉄粉を,1978年からアトマイズ鉄粉を製造販売していること・・・,鉄粉の使用用途の一つとして脱酸素剤(註.脱酸素材及び酸素吸収剤に同じ)の用途があること・・・,銘柄KIP303A60が脱酸素材用途に用いられること・・・が記載されており,・・・甲第12号証ないし甲第14号証の記載内容を総合的に判断すれば,本件出願前に,銅及び硫黄含有量が本件発明の範囲内にあるKIP303A60が脱酸素剤用途の脱酸素剤用鉄粉の銘柄として一般に市販されていたと推認される。』
『 甲第15号証ないし甲第17号証の各々と甲第13号証の関係とその技術的内容について検討すると,昭和62年12月11日付け甲第15号証に見られるように,三菱瓦斯化学(株)エージレス部より脱酸素剤エージレスの原料として川崎製鉄(株)の鉄粉KIP303A−60を使用することが提案され,その提案が,三菱瓦斯化学(株)東京工場エージレス部と川崎製鉄(株)及び菱江化学株式会社との3社間で取り交わされた鉄粉KIP303A60の納入,安全・衛生性に関する取決めとして昭和63年6月8日付け甲第16号証「原料.資材調査表」に結実していることが認められる。さらに,昭和63年6月28日付け甲第17号証には,鉄粉の増産を考えているのでエージレス用鉄粉(・・・,KIP303A−60,・・・等)について非危険物の判定をする旨の記載があり,KIP303A−60が購入され,脱酸素剤用途に使用されていたことが明らかである。これらに基づき,昭和63年11月14日付け甲第13号証に示されているように,実際に川崎製鉄株式会社から三菱瓦斯化学株式会社にKIP303A−60が2ロット合計10トン納入されていることが認められる。・・・上記の甲第13号証の記載内容の検討からしてKIP303A−60は本件発明の範囲内の銅,硫黄含有量を有する鉄粉として一般に販売されていたということができるものであるところ,以上の甲第15号証ないし甲第17号証の各々の証拠の記載を総合的に判断すれば,本件発明の範囲内の銅,硫黄含有量を有する鉄粉であるKIP303A−60が,本件出願前にすでに,脱酸素剤の原料である脱酸素剤用鉄粉として使用されていたと推定される。そうすると,甲第13号証及び甲第15号証ないし甲第17号証の記載を総合的に判断すれば,本件出願前に,銅及び硫黄含有量が本件発明の範囲内にあるKIP303A−60が脱酸素剤用途の脱酸素剤用鉄粉の銘柄として一般に市販されていたと推認される。』
『 以上のことからすると,甲第13号証についての認定をふまえ,甲第12号証,甲第14号証及び甲第15号証から甲第17号証の記載内容を勘案すれば,本件出願前において,銅,硫黄含有量が本件発明の範囲まで低減された鉄粉が既に脱酸素剤用途の脱酸素剤用鉄粉の銘柄として一般に市販されていた』
『 本件出願時において,(i)本件発明が規定する範囲内の銅,硫黄分を含有する脱酸素剤用鉄粉が本件出願前に一般に市販されていたということができ,かつ,(ii)樹脂配合用脱酸素剤においては脱酸素剤用鉄粉と塩化ナトリウムが原料として使用されることが甲第1号証に記載されていれば,本件発明が規定する範囲内の銅,硫黄分を含有する樹脂配合用脱酸素剤(註.酸素吸収剤に同じ)は当業者にとって容易に想到されるとするのが相当である。』
『 甲12ないし17の記載内容から,被告は,昭和62年10月ころ,被告が当時販売していた脱酸素剤「エージレス」用の原料鉄粉として,川崎製鉄が市販していた鉄粉「KIP303A−60」を使用することの可否等について検討を始め,同年12月11日,担当部(エージレス部)から,「KIP303A−60」は充分使用可能であり,その使用による原材料コスト削減の効果があるので,「KIP303A−60」を使用することの提案がされた後,昭和63年6月8日,川崎製鉄ほか1社との間で,「KIP303A−60」の納入に関する取決め(甲16)をし,その取決めに基づいて,本件出願(平成1年3月28日)前の昭和63年11月,川崎製鉄から,「エージレス」用の原材料鉄粉として「KIP303A−60」を2ロット合計10トンの納入を受けたこと,納入された「KIP303A−60」の銅含有量及び硫黄含有量は,いずれも本件発明の規定する銅含有量(150ppm以下)及び硫黄含有量(500ppm以下)の範囲にあったことが認められる。上記認定事実に照らすならば,甲12ないし17から,本件出願(平成1年3月28日)前に,川崎製鉄が本件発明の規定する銅含有量(150ppm以下)及び硫黄含有量(500ppm以下)の範囲内の鉄粉「KIP303A−60」を市販していたこと,遅くとも上記取決めのされた昭和63年6月8日までに,川崎製鉄と被告は,鉄粉「KIP303A−60」を脱酸素剤(酸素吸収材)である被告商品「エージレス」の原料の用途に使用できることを認識していたこと,川崎製鉄は,本件出願前に,被告に対し,「脱酸素剤用鉄粉」として,「KIP303A−60」を販売していたと認定できる。(ウ) しかし,甲12ないし17の記載内容を勘案しても,川崎製鉄が,本件出願前に,被告以外の脱酸素剤の製造業者に対し,「KIP303A−60」を「脱酸素剤」との用途により販売していた事実を認定することはできず,その他,同事実を認定するに足りる証拠はない。以上のとおり,甲12ないし17から,川崎製鉄は,本件出願前に,被告1社に対し,「KIP303A−60」を「脱酸素剤用鉄粉」として販売していたということはできるものの,被告以外の業者にこれを「脱酸素剤用鉄粉」として販売していたものと認めることはできないから,甲12ないし17から,本件出願前に,「KIP303A−60」が「脱酸素剤用鉄粉」として「一般に市販」されていたということはできない』
『 甲14から,川崎製鉄は,平成8年2月当時,「KIP303A−60」を「脱酸素剤用」鉄粉として市販していたことが認められるが,この販売の事実から直ちに約7年前の本件出願(平成1年3月28日)当時において川崎製鉄が「KIP303A−60」を「脱酸素剤用」鉄粉として市販していたとまで推認することはできない。かえって,@「KIP303A−60」は,本件出願前の昭和63年1月に印刷された川崎製鉄作成の「KAWASAKI P/M GRADE ATOMIZED IRON POWDERS」と題する書面(甲12)に,「KIP260A」,「KIP280A」,「KIP300A」,「KIP301A」,「KIP300AS」とともにアトマイズ鉄粉製品として掲載されたこと(前記(ア)b@),A甲12の表題中の「P/M」は,「粉末冶金」を意味するPowderMetallurgyの略語であること(甲20,21),B 甲12掲載の「KIP260A」,「KIP280A」,「KIP300A」,「KIP301A」は,甲14にも掲載されているが,その用途は「粉末冶金用」とされていること(同e@),C本件出願から約1年10か月後の平成2年12月作成の甲22(特殊鋼39巻12号67頁)にも,甲12掲載の「KIP300AS」は,「KIP260A」及び「KIP300A」とともに「粉末冶金用鉄粉」として記載されていること(なお,甲22には,「その他用合金鉄粉」の用途として「溶接用」等の記載はあるが,「脱酸素剤用」の記載はない。)に照らすならば,「KIP303A−60」は,本件出願当時,「粉末冶金用鉄粉」として一般に認識されており,「KIP303A−60」が「脱酸素剤用」の用途に適することは,被告を除く,脱酸素剤の製造業者に認識されるに至っていなかったことが窺われる。 』
『 被告提出に係る乙3(甲13は,その一部)によれば,川崎製鉄は,「KIP303A−60」の納入に関する取決め(甲16)に基づいて,本件出願前の昭和63年6月16日から同年12月16日まで(6か月)の間に,被告に対し,脱酸素剤「エージレス」用の原材料鉄粉として「KIP303A−60」を合計160トン納入したことが認められる。しかし,上記事実があるからといって本件出願前に川崎製鉄が被告以外の製造業者に「KIP303A−60」を「脱酸素剤用鉄粉」として販売していたことを裏付けるものとはいえない。』
『 以上のとおり,甲12ないし17から,本件出願前に,「KIP303A−60」が「脱酸素剤用鉄粉」として「一般に市販」されていたということはできず,甲12ないし17の記載内容を勘案しても,「(i)本件発明が規定する範囲内の銅,硫黄分を含有する脱酸素剤用鉄粉が本件出願前に一般に市販されていた」との前提事実を認定することはできない。また,本訴で提出された他の証拠を勘案しても,「本件発明が規定する範囲内の銅,硫黄分を含有する脱酸素剤用鉄粉が本件出願前に一般に市販されていた」ことを認めるに足りない。したがって,審決の前提事実の認定には誤りがある。』
本事案では、銅及び硫黄含有量が本件発明の範囲内にある「KIP303A−60」について、本件出願前に「脱酸素剤用鉄粉」として一般に市販されていたか否かが争点となり、裁判所は、『川崎製鉄は,本件出願前に,被告1社に対し,「KIP303A−60」を「脱酸素剤用鉄粉」として販売していたということはできるものの,被告以外の業者にこれを「脱酸素剤用鉄粉」として販売していたものと認めることはできないから,甲12ないし17から,本件出願前に,「KIP303A−60」が「脱酸素剤用鉄粉」として「一般に市販」されていたということはできない。』、『「KIP303A−60」は,本件出願当時,「粉末冶金用鉄粉」として一般に認識されており,「KIP303A−60」が「脱酸素剤用」の用途に適することは,被告を除く,脱酸素剤の製造業者に認識されるに至っていなかったことが窺われる。 』と判断し、審決の前提事実の認定に誤りがあるとして取消事由1(容易想到性の判断の誤り)を認めたものである。
裁判所の認めた事実によると、「KIP303A−60」が被告に対して「脱酸素剤用鉄粉」として販売されており、少なくとも「KIP303A−60」を「脱酸素剤用鉄粉」の用途に利用する点については既に公知であったと考えられる。しかし、審決の容易想到性の判断の論理は、本件発明が規定する範囲内の銅,硫黄分を含有する脱酸素剤用鉄粉が出願前に一般に市販されていたという事実を前提として、甲第1号証の記載(樹脂配合用脱酸素剤において脱酸素剤用鉄粉と塩化ナトリウムが原料として使用される点)により容易想到性が肯定されるというものであり、前提事実は「公知」では足りず、「一般に市販されていた」ことまで要求されるのである。そしてこの点について裁判所は、『被告以外の業者にこれを「脱酸素剤用鉄粉」として販売していたものと認めることはできない』ことを理由に、「一般に市販されていた」とまではいえないとして前提事実の認定に誤りがあったと判断したのである。
とくに、本事案では「KIP303A−60」が被告1社に対して「脱酸素剤用鉄粉」として販売された時点が本件出願の僅か3〜9ヶ月前であり、この期間の短さの点も今回の判断(「一般に市販されていた」とまではいえない)に少なからず影響したと思われる。
なお、今回の裁判で原告は、甲12は頒布日が不明である点、甲13、15〜17は秘密文書である点、甲14は本件出願日から7年後に印刷された文書である点から、いずれも本件出願前に頒布された刊行物ではなく、本件発明の進歩性判断資料とはできないと主張しているが、被告の反論にあるように、上記前提事実を立証するために提示された甲12〜17のような資料については、公に頒布された資料であるか否か、当事者の内部資料であるか否か、本件出願の後に作成された資料であるか否かを問わず、上記立証のための証拠価値を有する。裁判所も、甲12〜17に基づき、「KIP303A−60」が被告に対して「脱酸素剤用鉄粉」として販売された事実を認めている。ただし、無効審判請求人としては、本件出願日の後に作成された資料(甲14、甲22)が証拠価値を有するとしても、以下の本事案の判断に示すように、逆に無効審判請求人にとって不利に推認されてしまうこともありうる点に留意すべきである(証拠共通の原則)。
『 甲14から,川崎製鉄は,平成8年2月当時,「KIP303A−60」を「脱酸素剤用」鉄粉として市販していたことが認められるが,この販売の事実から直ちに約7年前の本件出願(平成1年3月28日)当時において川崎製鉄が「KIP303A−60」を「脱酸素剤用」鉄粉として市販していたとまで推認することはできない。かえって,・・・本件出願当時,「粉末冶金用鉄粉」として一般に認識されており,「KIP303A−60」が「脱酸素剤用」の用途に適することは,被告を除く,脱酸素剤の製造業者に認識されるに至っていなかったことが窺われる。 』
(文責 森岡)
(2008/02/21)